第20話  庄内竿は延竿   平成15年8月15日


和竿
とは布袋竹、真竹、淡竹、黒竹、矢竹、内竹、高野竹、丸節竹など日本に産する竹を使って作られた竿の事を云う。

この和竿なる名称は、極々最近になって生まれた言葉と云う事は案外知られていない。

西洋で作られた竿が大体木によって作られたものが多かったが、バンブーロッドと云うのがある。竹の種類で、熱帯で採れるバンブーを使い4枚に張り合わせたフライ用の竿を1850年代に作られたのが始まりである。イギリスのハーデイ社の六角に削られたバンブーロッドは1870年から製作販売された。フライの習慣のなかった日本では30年代後半になると投げ竿に利用され六角竿と云われて俄かに普及し始めた。其の頃の国内メーカーではサクラ印が有名である。

そんな事もあり、同じ竹の種類で作られた西洋の竿と国産の竿との違いを区別する為に出来た言葉が「和竿」という言葉であった。

和竿と云っても大きく区別して延竿、継竿に分かれている。又、竹の種類や産地、対象魚により様々な竿が作られている。元々は漁師が使っていたのはすべて延竿である。また、子供向きの安竿も延竿である。

江戸時代に入り、太平の世に慣れて来ると武士や商人階級が余暇に釣を楽しむ風潮が生まれ、更に釣が大衆にまでそれが波及した。江戸時代の末期になると釣竿も特権階級の持ち物が華美になり、漆を塗ったり、螺鈿細工の物もさえ出てくる。釣る為の竿ではなく豪華な持ち物としての竿が生れた。もちろん釣るための竿も江戸を中心に関西などに生まれている。それらは竹の特性と持ち運びに便利な様にその殆んどが継竿である。継竿は印籠継、並継に分かれている。そして現在では菅継が加わる。それらの竿は大概他の竹を二、三本に切って竹の特性を生かすため何種類かの竹を合わせて作られている。技術面から云えば作られた竿と云えるのではないかと思う。

そんな中、庄内だけは延竿のみが発展した。庄内には特産の苦竹という同じ竹で根から穂先まで同じ竹で竿が作られる竹があった事による。何百という竹薮の竹の中から一本だけ選びに選び抜かれて作られる竿であるから悪い訳はない。それを4~5年かけて黒鯛、スズキ、赤鯛を釣るための竿を作るのであるから大変な労力であった。もちろん他の魚を釣るための竿も無かった訳ではない。庄内竿は技術面から云えば、竹の素質を最大限生かした竿である。

何故その様な竿が生まれたのか? 

庄内藩の特殊性を考えるとおのずと答えが出てくる。藩主が代々家来の心身の鍛錬を図り釣を武芸の一端の釣芸として奨励して来た事がある。もちろん領民にも釣を奨励したという。往復20~30kmから時には其の倍の距離を徒歩で歩くのであるから体を鍛えるには丁度良い。更に朝マヅメに間に合う様にする釣行では夜間の行進と同じである。刀を腰に差し、釣の道具に幾本かの釣竿を担いで更に食料を背負っての釣行はかなりの運動量であったと考えられる。

釣をすれば、当然良い竿が欲しくなる。良い竿を求めて武士たちは庄内中の竹薮に入り選びに選んで良い竹を探して来る。家禄を貰っての武士の為、食う事には心配は要らない。当然手間隙を考えないで竿作りに励む事になった。当時の弱かった道糸、ハリスを使い如何に大物を釣るかをだけを念頭に置いた竿作りであった。「名竿は名刀より得難し」などの名言が生まれた。更に「名竿は子々孫々に伝うるべし」となるのである。関東、関西の竿との違いは武士が作り発展してきた事である。竿作りの職人が居なかった訳ではないが、今に残る名竿の殆んどは士族か士族の末裔たちである。

関東、関西のように継竿にする必要がない竹に恵まれていた事と食うに困らぬ武士たちの手により磨かれたが故に延竿のみが作られ、黒鯛を釣る竿として発展してきたのである。

残念ながら江戸末期から明治にかけての名竿の多くが、汽車や自動車と云った運送手段の変化で大正から昭和に入り携帯に便利な継竿にされてしまっている。更に困った事には7mからの延竿のままでは大金持ちや庄屋、大百姓などの家は別として普通の家の中には保管がままならなくなって来た。それ故今では7mからの長竿の延竿は博物館などでしか見る事は出来ない。

それに昨今の竹薮には7mからの竹を見る事が出来ず、長くとも4.5mがせいぜいである。現在の竿師の方が作っているのは、其の殆んどが庄内竿の継竿と庄内中通し竿であるが、庄内竿と云えるのは今でも延竿と竿師の方は云っているのである。残念ながらその延竿は1.8m位の小物竿くらいしか見つからない。継竿と中通し竿は庄内竿ではないのである。